エド・シーラン米ツアーからマックルモア降板 声明全文で見えた「二つの正義」と見出しでは落ちた事情【海外の反応・解説】

エド・シーランの全米ツアーからマックルモアが降板。見出しだけなら「エドが外して謝った」に見えるが、声明全文を読むと批判は「なぜ抵抗しなかったか」に変わる。会場側と活動家側の二つの論理と、情報量で変わる評価を海外の反応とともに整理する。

今回の記事の重要ポイント(三点)

・9月14日にマックルモアがエド・シーランの全米ツアーから外され、前座とバックバンドが相次いで離脱した。シーランは19日の公演で、自分にも間違いがあったと認めて謝罪した。

・降板はプロモーターが自らの決定と説明し、会場側が出演拒否を通告していた。主演者が政治的な立場を取れば、本人だけでなくクルーや出演者、数十万人の観客に影響が及ぶ。

・見出しだけなら「エドが外して謝った」に見え、全文を読めば「なぜもっと抵抗しなかったか」に批判が変わる。会場側と活動家側の二つの論理の間で、答えを求められたのは主演者と、友人として一言かけたONE OK ROCKのTakaだった。


マックルモア降板から、シーランの謝罪まで

米ラッパーのマックルモアが9月14日、英歌手エド・シーランの全米スタジアムツアーの残り公演から外れた。プロモーターのメッシーナ・ツーリング・グループは声明で、今後の会場から「マックルモアが出演するなら公演を認めない」と通告され、ツアー中止を避けるため関係者と協議のうえ降板を決めたと説明した。

発端は9月4日と5日のニュージャージー州メットライフ・スタジアム公演で、マックルモアが前座の演奏中に「パレスチナに自由を」と呼びかけ、ガザの映像を背景に曲を披露したことだった。

ボストン近郊のジレット・スタジアムを所有するロバート・クラフト氏は14日、舞台で示された素材と「反ユダヤ的な言辞・図像の履歴」を理由に、自身の会場での出演を認めないと表明した。マックルモアは同日、シーランから「クラフト氏が他のスタジアム所有者をまとめて最後通告を出した」と聞かされたと投稿し、「犠牲者はパレスチナの人々だ」と書いた。

シーランは15日、「いくつかの事実を示しておきたい」として箇条書きの声明を出し、降板はプロモーターの決定で自分の決定ではなく、一週間にわたり会場側と話し合ったが決定は最終だったと説明した。同日、前座のアーロン・ロウとルーカス・グラハム、南米公演に予定されていたフィニアス、バックバンドのビオガが相次いで離脱を表明した。

シーランは19日、騒動後初のフィラデルフィア公演の冒頭で、自身の一週間について「難しい決断を迫られ、間違いも犯している。本当に申し訳ない」と語った。ガザの状況を「壊滅的で正当化できない」と述べる一方、2023年10月7日の音楽祭襲撃を「ユダヤ人の何世紀もの痛みを深めた」と表現し、会場が公演内容を事前に審査する動きには「自由な世界で起きてはならない」と懸念を示した。


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主演者が抱えているものと、二つの論理

9月15日の声明は四つのことを述べていた

イスラエルとパレスチナの対立は20世紀前半にさかのぼり、1948年のイスラエル建国と第一次中東戦争、多数のパレスチナ人の難民化を経て、占領地をめぐる戦争と和平交渉の失敗を繰り返してきたパレスチナ問題です。

今回のガザ戦争の直接の発端は、2023年10月7日にハマスがイスラエルを攻撃し、音楽祭の来場者を含む多数を殺害して人質を連れ去ったことでした。

イスラエルはその後ガザで大規模な軍事作戦を始め、長期化した戦闘による多数の民間人死傷者と深刻な人道危機が国際的な批判を招いてきました。マックルモアの「パレスチナに自由を」は、このガザの状況を念頭に置いた呼びかけです。

シーランの声明は、14日の降板発表とマックルモアの投稿で批判が広がった翌15日に出たものです。批判はこの声明で収まらず、同じ日に前座の離脱が続き、19日の公演での再説明につながります。声明は、自分の職業上の場を政治的主張の場にしないという説明だけではなく、大きく四つの内容で構成されています。

一つ目は紛争への言及です。冒頭で「イスラエルとパレスチナの紛争に慄然としている」とし、「双方に生じた苦しみと痛みは人間の悲劇だ」と書いています。どちらに責任があるかは述べておらず、ガザや西岸といった地名もこの時点では出てきません。

二つ目は交渉の経緯です。会場側から「マックルモアが前座に残るなら公演を引き上げる」と伝えられ、一週間かけて話し合った相手の一人がクラフト氏だったと明かし、プロモーターや「双方の活動家」とも協議したが決定は最終だったと続けます。

三つ目は契約関係で、降板はプロモーターの決定であり、マックルモアの契約相手も自分ではなくプロモーターだという説明です。公演を続ける理由には、予定を立てたファンと、生計を自分に頼るクルーや他の出演者を挙げています。

四つ目は「私は加担していない」という一節です。個人的な見解は持っている、公に語らないことは無関心ではない、と書いたうえで、観客に子どもが多いことと、平和に至る道は一つではないことを、政治的な発言を控える理由に挙げています。


主演者の判断は、名前のもとで働く全員と数十万人の観客に及ぶ

大規模なツアーには、主演アーティスト・プロモーター・会場所有者の三者が関わります。AP通信が本件の当事者ではない業界関係者3人に取材した記事によると、資金を出し、全出演者に支払い、会場と交渉し、チケットを売るのはプロモーターです。会場所有者は通常、鍵を渡して手を引きますが、扉を閉める権限は持っています。

主演者には「スーパースターならすべてに承認権を持つ」という影響力があります。

その影響力は、主演者が自分の名前で動かしている人と金の大きさと表裏です。声明でシーランは、ツアークルー・他の前座・ミュージシャンが自分の仕事で生計を立てていること、予定を立てたファンがいることを、公演を続ける理由に挙げています。プロモーターは、会場の通告に従わなければツアー中止になり数十万人の観客に影響が及ぶと説明しました。

主演者が自分のステージで何を語るかは自由です。公演を止めて抗議すれば、その代金を払うのは本人だけではなく、名前のもとで働くクルーや出演者にも及びます。「政治を持ち込まない」は、この位置に置かれた人が取りやすい姿勢で、同時にAPの取材が示すとおり、主演者には影響力を使う余地もあります。取材された3人は今回の契約内容を見て話したわけではなく、シーランが交渉で何をどこまで求めたかは公開されていません。


会場側の論理とマックルモア側の論理は、前提が違う

クラフト氏の声明は、パレスチナ人の苦しみを軽んじるものでも代弁する権利を否定するものでもないと断ったうえで、最近の行動、ニュージャージー公演で舞台から示された素材、反ユダヤ的な言辞と図像の履歴の三つを理由に挙げ、ハマスの責任に触れずに一方の情報だけを示すのは誠実ではないと書いています。反ユダヤ主義とみなす表現を自分の会場に載せない、という論理です。

マックルモアは、5日にユダヤ人の観客へ「イスラエルへの批判はあなたへの批判ではない」と語ったと報じられ、14日の声明では「犠牲者はパレスチナの人々だ」と書きました。力が非対称な状況では、どちらにも与しないこと自体が現状の追認になる、という論理です。

両者は、それぞれ異なる前提から一貫した主張をしています。声明は互いに向き合っておらず、クラフト氏はマックルモアと「座って事実を話したい」と書き、マックルモアはシーランを通じてクラフト氏の言葉を聞いた形です。両方と直接話したと述べている当事者は、シーランだけです。

クラフト氏が三点のうち何を決定的と見たか、履歴として何を指したかは確定しません。声明は過去の具体例を挙げておらず、地元局は2014年の衣装をめぐる論争を指すとみられると報じています。クラフト氏は、マックルモアが主張する「他の所有者をまとめた」という点を否定も肯定もしていません。二人は13年来の友人で、2023年にはシアトルでのシーランの公演にマックルモアが客演しています。


海外の反応

声明が公開された直後、エド・シーランのファンが集まる掲示板に立ったスレッドには、千件を超えるコメントが付きました。

投稿主は「中立でいたいので自分の考えは言わない」と添えていましたが、上位に並ぶコメントは批判的な意見が中心です。

目立ったのは、降板を決めたのがエド本人ではないと認めたうえで、それでも何かできたはずだ、という声でした。

反対に「ツアーを止めれば別の人が職を失う」「本人は交渉したと言っている」と擁護する人もいて、その応酬が何往復も続いています。

以下はスレッド内のユーザーコメントの抜粋・翻訳です。


正直に言うと、自分にとってこれはパレスチナだけの話ではない。億万長者が、アーティストの言っていいことと悪いことを決めている。その一点に尽きる。そして、そこが一度も踏み込んで語られないのが引っかかる。

もしクラフト(ロバート・クラフト。会場となったジレットスタジアムを所有するNFLチームのオーナー)が気に入らなかった発言が、「女性には世界中で選挙権があるべきだ」や「同性愛者は世界中で結婚できるべきだ」だったとしても、同じ展開になっていたのだろうか。


これ。エドがこれまでパレスチナについて自分の意見を出さなかった理由は分かる。自分はそういう役回りじゃないと思っているのだろう。

ただ、会場の持ち主が何を言っていいか指図して、それに従うというのは、別の問題だと思う。


ウクライナの旗を振って、あの戦争について公の場で話すことには、何の問題もなかったのにな。


それを言うのがおかしいのは、マックルモアはウクライナの戦争についてはずっと黙っていたのに、誰も彼を「腰抜け」とは呼ばなかったからだ。


ウクライナ支持なんて、みんなが当然だと思っている。わざわざ呼びかけて支持を集める必要すらない。ウクライナを支持するのが、彼がガザについて公に口にするのと同じだけのリスクを負うことだと、本気で言っているのか。だとしたら、分かっていて言っている。


「双方の」活動家、ときたか(声明にある「双方の活動家とも直接協議した」という一節への反応)。


ここ数年で一番何も言っていない返答。しかも「双方とも悪いことをしている」から書き出したせいで、かえって印象が悪くなっている。


エドはひどい立場に置かれている。

道義の話として、マックルモアを守るべきだった、パレスチナについて中立でいるべきではなかった、という主張は成り立つ。それは分かる。でも、その選択に何の代償もないわけではない。

何千人も雇っている。何十万枚もチケットを売っている。契約があり、出入りの業者がいる。

それでも人はエドを悪役にする。中立でいようとしたからだ。実際には、いつもと同じく、悪役は金を持っている側である。クラフトとその取り巻きが、反対の立場を取ったアーティストを黙らせようとしている。

責められるべきは、大半がクラフトと、それからマックルモア自身のはずだ。マックルモアが自分の舞台で政治的な立場を取るのは彼の権利で、そこは立派だと思う。ただ、そうする以上、結果も引き受けなければならない。その結果のために主演が身代わりになれというのは道理に合わない。たとえあなたがそう思っていても、彼らに道義上の義務はない。


エド・シーランには「知ったことか」と言えるだけの金があるし、世界最大級のポップスターだ。その気なら、ツアーの全員に払うものを払ったうえで、それでも十分に裕福なままでいられる。仮に公演が中止になったとしてもだ。そもそも法的には、プロモーター側が違約金を払わずに中止することはまずできない。エドは普段から自分のイメージに政治を持ち込んでいる。パレスチナについてだけ臆病になっている。ジェノサイドという言葉すら使えず「対立」で済ませたことが、すべてを物語っている。


立場を表明するのは簡単だ。何千人もの客が来るコンサートのチケットに、自分の名前が載っていなければの話だが。エド・シーランを叩くのも簡単だ。彼の公演を脅した億万長者や、実際に人を殺している政府を叩くより、ずっと簡単だ。

一部の人がアーティストや有名人に課している純潔テストと、「声を上げろ」という要求は、手間も不便も伴う行動を実際にやる代わりにやっていることだ。本当に強く思っているなら、クラフトの製品を買わない、気に入らないアーティストを聴かない、ソファから立ち上がって世界を変えるために何かする、だろう。

自分では動く気のない大義について、エド・シーランが(あるいは他のアーティストが)十分にやっていないと嘆くのは、怠けた身代わりでしかない。そして的も外している。ポップ歌手が何をしようと何を言おうと、ガザで起きていることは変わらない。変えられるのは、何百万人が抗議し、投票することだけである。


違う。何千人もの客が来るコンサートのチケットに自分の名前が載っていなければ立場を表明するのは簡単だ、なんてことはない。平和的にパレスチナ支持を訴えた人たちが、警官に身体を壊されて障害が残っている。立場を表明したせいで職を失い、暮らしを失っている。

エドは被害者ではない。会場側のはったりを見抜いて押し返す手段を持っているのに、やらない。ツアーを延期したり中止したりしても自分のスタッフを支える手段を持っているのに、やらない。まったく自分の手を離れた話のように振る舞っているが、そうではない。

人を分断したままにしているのは、あなたのような言い方そのものだ。毎日、この仕組みの中で削られている働き手に、百万長者を啓蒙して政策に抗議する責任はない。名声も、弁護士も、金もない人たちに、上の人間の非道を正す責任はない。エド・シーランのようなポップアーティストには、実際に何かを変える舞台と手段がある。それなのに何もしない。だからファンがパレスチナを支持していない(そんなことはないが)と責める前に、臆病を捨てて立ち上がろうとしない上の人間全員を責めたらどうなのか。


というか、エドは活動家の領域に足の先だけ浸しておきたいのだと思う。しかもキャリアのためにだ。それなら「自分は政治的な立場を取らない」と言うだけの方がまだましで、こちらの方がたちが悪い。

彼はウクライナ支援の慈善公演をやった。アボリジナル(オーストラリア先住民)の意匠が入った服を着ている。ただ、あれは広く支持される大義で、パレスチナの議論のように割れる話ではない(本来なら割れる話ではないはずだが、現に割れている)。これまでの彼の政治的な発信は何だったのか、今になって考えてしまう。あれは本心だったのか。人気のあるものにしか賛同しないのなら、金以外に信じているものがあるのか、疑いたくもなる。


このスレッドで書き込んでいる人の大半は、そもそもエドのファンですらないと思う。自分たちの大義に膝を折らない有名人を、また一人叩きに来た「パレスチナ支持」の人たちだろう。

仮に本当にエドのファンなのだとしたら、この社会が終わっている理由がよく分かる。世界観が一つ合わなかっただけで、好きだった相手を嫌いになる。全員が自分と同じように考え、同じように反応するべきだというのは、子どもの発想だ。


「仮に本当にエドのファンなのだとしたら、この社会が終わっている理由がよく分かる」

悪いが、好きなアーティストを盲目的に支持しないから社会が終わっている、と本気で思っているのか。社会が終わっている理由はそこじゃない。金を持っている連中が力を振り回して、人が何を言えて何を言えないかを決めているからだ。


19日の公演での発言は、ファンコミュニティの外にも広がりました。

音楽全般の掲示板では、話す姿そのものへの見方が先に立ちます。

そして「本当に世間は怒っているのか」という問いが、公演の入りとチケット価格を材料に言い合いになっていきました。

以下はスレッド内のユーザーコメントの抜粋・翻訳です。


原稿の映し出された画面を読んでいる。本心を一つも言い漏らさないようにするためで、同時に、金を出している側の機嫌も損ねないようにするためでもある。


要するに、自分のキャリアに響いていることを申し訳なく思っている、という話。


そうか。昨夜の公演には6万人が入っている。しかもシーランは、もう前座と売上を分け合わなくていい。

昨日、公演は普通に行われた。正直、この話はこれで終わりだと思う。この先また話題になるとは思えない。


いや、あなたが話しているのは金のことだ。それはもう何百万も持っている。彼が失ったのは評判の方だろう。


そんなことはない。これを気にしているのは、ずっとネットに張り付いている一部の人間だけだ。現実の世界では、そもそもこの件を知らないか、公演を家族向けの、政治の入らない場に保とうとしたシーランを称えているかのどちらかだ。昨夜は6万人の熱心な客が、最初から最後まで歓声を上げていた。


それはたぶん、チケットが42ドルまで下がったことも関係している。


情報が増えるほど、批判の形が変わった

全文を読んだ人と、見出しだけを見た人では「炎上の理由」が違う

批判を一括りにしないことが、この騒動を読む出発点です。シーランの声明全文を読んだうえで「それでも主演者としてもっと抵抗できたはずだ」と批判する人がいます。この批判は、エド本人が降板を決めたという誤解から生じたものではありません。

一方で、声明全文より先に多くの人の目に入るのは、ニュースの見出しやSNS上の短い要約です。「マックルモアがパレスチナ支持を表明」「エド・シーランのツアーから降板」「シーランが謝罪」の三つだけを並べれば、主演者が降板を決め、後から謝った、という像もできあがります。

ガーディアンの15日の見出しは「マックルモアを外したことへの反発にシーランが応答」で、外した主体をシーラン側に置く書き方でした。19日の「間違いも犯している」は、日本語の見出しで「降板を謝罪」に変わっています。

見出しは事実の範囲で書かれています。複数の主体が関わる出来事を数十字に圧縮すると、最も名前の知られた人物が主語になりやすく、契約相手や会場からの通告、一週間の交渉といった事情が落ちます。

全文まで読むと、批判は「なぜ外したのか」から「なぜもっと抵抗しなかったのか」へ変わります。情報が増えて批判が消えたのではなく、批判の質が変わった、というのが今回の形です。


「中立は加担」という批判には一貫した論理があり、要求は重い

全文を読んだ批判の中心は、マックルモアの論理です。失ったのは9万人の前で言葉を発する機会であり、力の差がある場面でどちらの味方にもならないことは、強い側の判断を受け入れることと同じだ、という主張です。シーラン自身も19日に、会場が公演内容を事前に審査する動きは「自由な世界で起きてはならない」と述べ、自分の対応に間違いがあったと認めました。何を間違いとしたかは、本人は限定していません。

そのうえで、要求の中身を具体にすると重さが見えます。公演を止めれば、名前のもとで働く人の収入と数十万人の観客の予定が止まります。公然と抗議すれば、残りの会場との関係が壊れ、同じ人たちの仕事が危うくなります。声明は一週間交渉したと述べていますが、何を求め、何を提示され、どこで折れたのかは書かれていません。

「本気で交渉すれば覆せた」も「交渉したのだから十分だった」も、この空白を推測で埋めた主張です。

ファン掲示板の「謝罪はキャリアのため」「弁護士が書いた」と、「現実の人は誰も気にしていない」「ファンでもない人が流入した」も同じで、どちらも観測できない他人の内心や社会全体を推測しています。一方、「一週間交渉したのは分かった、それでも止めてほしかった」と「続けて仕事を守った判断を支持する」の違いは推測を含まず、同じ事実を踏まえても残る価値判断です。


二つの論理の間で、答えを求められたのは名前と顔を持つ主演者だった

会場側の論理は「反ユダヤ主義とみなす表現を舞台に載せない」で、活動家側の論理は「力の差がある場面で沈黙しない」です。二つの声明は互いに向き合っておらず、クラフト氏はマックルモアと「座って事実を話したい」と書き、マックルモアはシーランを通じてクラフト氏の言葉を聞いた形です。

両方と直接話したと述べている当事者はシーランだけで、声明の「自分の場を安全と避難の場所にする」という一節は、この位置からの答えです。

批判の宛先も主演者に集中しました。会場所有者は声明を一度出せば済み、興行会社は社名しか見えません。主演者はチケットに名前があり、SNSの投稿があり、毎晩ステージに立ちます。「どちらの味方か、立場をはっきりさせろ」という要求は、答えを返せる相手に向かいます。離脱した前座のロウは、批判はクラフト氏へ向かうべきでシーランへではない、と述べたと報じられています。

ファン掲示板の応酬はこの構図をなぞっています。「エドを叩くのは簡単だ。彼の公演を脅した億万長者や、実際に人を殺している政府を叩くより、ずっと簡単だ」という擁護に、「エドは被害者ではない。会場側のはったりを押し返す手段を持っているのに、やらない」という反論が付きました。どちらも、決定権と手段を持つのは誰かを争っています。批判の内容と、その批判を誰に向けるかは、別の問題です。


「どちらの味方か」という要求は、友人の一言にまで及んだ

ONE OK ROCKのTakaは、19日の公演に関するシーランの投稿へ「エド、勇気が要ったと思う。僕にとって君は鏡だ。心から尊敬する」とコメントし、ファンから批判を受けました。投稿には「パレスチナに自由を」のコメントが集まり、降板の擁護だという受け止めが広がりました。

19日の発言は、ガザの状況を「壊滅的で正当化できない」と述べ、会場の事前審査に懸念を示したものです。その内容を知らない読者には、「勇気」が発言に向けられたのか、降板を含む一連の対応に向けられたのかが分かりません。

Takaは、誤解を招いたなら申し訳ない、友人があの状況にいるのを見て黙っていられなかった、という趣旨の釈明をし、戦争と民間人への暴力に反対する立場と、マックルモアが政治的立場を表明する権利を尊重する考えも示したと報じられています。

ツアーの判断に関与していない友人のTakaにまで、一連の判断について立場を示すことが求められた形です。見出しだけで像ができる段階と、全文を読んで批判が変わる段階は、日本語圏でも同じ順序で起きました。


説明はあった、それでも意見は分かれた

情報を増やすほど、問題は単純でなくなった

見出しだけなら「エドが外して謝った」に見えます。全文を読めば、決定主体はプロモーターで、会場からの通告があり、一週間の交渉があったと分かります。それでも批判は消えず、「影響力を使ってほしかった」という形に変わります。

さらに興行の仕組みまで調べると、主演者にどこまでの力があったかは公開資料では確定せず、「覆せた」も「十分だった」も推測を含みます。最後に残るのは、「それでも止めてほしかった」と「続けて仕事を守った」の価値判断の違いです。

会場側の論理と活動家側の論理は、それぞれ異なる前提から一貫しています。その間で答えを求められたのは、名前と顔を持つ主演者と、友人として一言かけたONE OK ROCKのTakaでした。批判の内容と、その批判を誰に向けるかは、別の問題です。

「どちらの味方か」と迫るとき、その人が実際に何を決められたのか、何を説明していたのか、確認できない部分を自分の想像で補っていないか。今回の騒動が残したのは、その三つの問いです。

それではまた、次回の記事でお会いしましょう。

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パレスチナとイスラエルの現在を24の章に分けた入門書です。故郷を追われた人々の状況、ガザでの支援活動、パレスチナ側の文化や商いの営み、イスラエル国内の世論まで含め、一つの対立の図式に収まらない材料を並べています。中東地域研究の研究者が編者を務めています。

今回の記事で扱った「パレスチナに自由を」という呼びかけは、この地域の何を指していたのか。争点そのものの是非に踏み込む前に、呼びかけられている側の暮らしと政治の現在地を押さえておきたい方に向きます。


『「表現の自由」の明日へ』

志田陽子(大月書店/2018年10月刊)

憲法学者が、誰もが発信者になった社会で表現の自由がどこまで守られ、どこで他者の権利や場の秩序とぶつかるのかを、著作権・ヘイトスピーチ・報道の自由まで含めて整理した一冊です。対立をなくす方向ではなく、共存のためのルールを探す立場で書かれています。

今回の記事で扱った「会場が公演内容を事前に審査する」という論点は、表現する側の自由と、場を提供する側の判断が正面からぶつかる場面です。この種の衝突を、どちらかの正しさではなく制度の設計から考え直したい方に向きます。


参考リンク

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国内外のニュースを「報道・海外の反応・背景解説」の三層で読み解く個人メディア『せかはん』運営者。2025年8月の開始から1年で300本以上を執筆し、noteフォロワーは2万人。特定の政党・組織に属さず、一次ソースの照合と左右両論の併記を編集の基本にしています。

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