今回の記事の重要ポイント(三点)
・米国・デンマーク・グリーンランドの3政府は9月18日、北極圏と北大西洋の安全保障を強化する協定を結ぶと発表した。署名は翌週の国連総会で行い、発効には各国の議会手続きが要る。
・米軍は1951年の防衛協定でグリーンランドの基地と上空をほぼ自由に使えており、報じられている新味は「NATOと切り離した恒久性」「独立後も続く効力」「非NATO国の排除」にある。条文は未公開で、公式発表は主権と自己決定権の承認だけを語っている。
・報じられた条件が条文になれば、米国は領土を取らずに戦略的な足場を固め、デンマークとグリーンランドは領有要求を退けて主権を文書に残す。三者が別々の計算で同じ紙に署名する形が、この協定の輪郭である。
米・デンマーク・グリーンランドが北極安保協定で合意
デンマーク首相府は9月18日、グリーンランド、デンマーク、米国の3政府が北極圏と北大西洋の安全保障を強化する協定に署名する見込みだと発表した。署名は翌週の国連総会の場で行い、各国の議会手続きを経て発効する。発表は協定の中身に触れていない。
トランプ大統領は同日、自身のSNSで、協定が「グリーンランドの安全保障とその他すべての必要事項について米国に恒久的な支配権を与える」と投稿し、協定に有効期限はないと述べた。ルビオ国務長官は翌19日、グリーンランドは「永久に北米の戦略防衛地域の一部となる」との声明を出した。
ロイター通信は匿名の国務省当局者の説明として、協定が米国に恒久的なアクセス、基地使用、上空通過の権利を与え、非NATO国の基地建設を禁じ、グリーンランドが独立しても効力が続くと報じた。新しい基地が建設されるのかを含め、多くが不明だとも書いている。
デンマークのフレデリクセン首相とグリーンランド自治政府のニールセン首相は、協定が王国の主権と領土の一体性、グリーンランドの人々の自己決定権を認めるものだと説明した。デンマーク最大野党の党首は協定を歓迎しつつ、条文の公開を求めている。
関連記事
買収騒動から協定までの9か月
1月の「買う」発言から合意まで
今回の合意は、今年1月に世界を驚かせた「グリーンランド買収」騒動の続報です。トランプ大統領は1月上旬、デンマーク自治領のグリーンランドを「国家安全保障上、不可欠な地域」と位置づけ、取引で解決できなければ「他の手段」を取ると発言しました。ホワイトハウスは軍事的な選択肢も排除しないと説明し、続いて協力が得られなければ欧州からの輸入品に関税を課すと圧力をかけています。
デンマークの線引きはこの時点で決まっています。フレデリクセン首相は1月22日の声明で、安全保障、投資、経済といった政治的な事柄は何でも交渉できるが、主権については交渉できないと述べました。トランプ氏はその直前の1月21日、ダボス会議でNATOのルッテ事務総長と会談した後に関税措置を見送ると表明し、騒動は表向き沈静化しています。
その後の交渉は表に出ていません。5月には米国のグリーンランド担当特使がヌークを訪れ、ニールセン首相は「進展はある」と語りつつ、外相は「グリーンランドを売ることはない」と繰り返しています。9月に入ってからも外相は欧州議会で「対話は続いている」と述べるにとどめ、詳細は明かしていません。
9月7日にはフレデリクセン氏、ニールセン氏、欧州委員長の3人がヌークで会見し、米国と安全保障で緊密に協力したいが欧州の同盟国とも協力を深めると語っています。その11日後に合意が発表された、という順序です。
関連記事
トランプ大統領のグリーンランド強硬発言 北極圏戦略と同盟秩序への波紋
トランプ大統領、グリーンランドを巡る関税圧力を撤回 北極圏を巡る駆け引きと同盟調整の行方
米軍は1951年から島にいる
「買う」という話が消えた後に残ったのは「安全保障の協定」で、その相手である米軍は75年前からこの島にいます。米国とデンマークは北大西洋条約の実施協定として、1951年に「グリーンランド防衛協定」を結んでいます。
米国はこの協定で島内に「防衛区域」を持ち、区域の間を陸・海・空で自由に移動し、相互に合意した場合を除いて島のどこにでも航空機を飛ばし着陸させる権利を得ています。
冷戦期には島内に多数の米軍施設があり、人員は1万人規模に達していました。2004年の改定(イガリク協定)で防衛区域は北西部のチューレ基地1か所に絞られ、人員も数百人規模へ縮んでいます。この基地は現在「ピツフィック宇宙軍基地」と呼ばれ、大陸間弾道ミサイルを探知するレーダーで北米の早期警戒網を支えています。
2004年改定には、米軍が施設や作戦を大きく変える前にデンマークとグリーンランド自治政府に協議し、通知すると書かれています。新しい防衛区域を設けるには両政府の合意が要る一方、既存の区域内での変更は協議と通知で足りる、という二段構えでした。専門家の間では、この協議義務は形式的なものに近かったという見方もあります。
そしてもう一つ、1951年協定には「北大西洋条約が存続する限り有効」という条文があります。米軍のグリーンランド利用は、法的にはNATOの枠に結びついた権利でした。今回の協定は、この結びつきを変えると報じられています。
北極防衛の穴
グリーンランドは面積が日本の約6倍、人口は5万7千人ほどです。この島と周辺海域を常時監視するには、レーダー、衛星、哨戒機、潜水艦探知の装備が要り、デンマークが単独で担うには重い負担です。
北極圏はロシアの大陸間弾道ミサイルが米国へ向かう最短経路にあたり、ロシア北方艦隊の潜水艦はグリーンランドとアイスランド、英国の間の海域を通って大西洋に出ます。
ロシアはこの10年で砕氷船団を近代化し、ソ連時代の北極基地を数十か所再開したとロイター通信は伝えています。NATO側の動きが速まったのは今年に入ってからで、2月にルッテ事務総長が北極圏の防衛強化策「Arctic Sentry」を発表し、3月には約3万人規模の演習を行いました。事務総長がこの構想を打ち出したのは、トランプ氏にグリーンランド取得を思いとどまらせる働きかけの一環だったと報じられています。
デンマーク自身も北極防衛への投資を2段階で積み、ヌークに新しい司令部を建て、哨戒機や防空レーダー、北極専門部隊を整備する計画を進めています。デンマーク国防省の資料は、この投資が「緊密な同盟国とNATOの作戦も支える」と明記し、新司令部が同盟国部隊の一時的な宿営を支援できると書いています。
同盟国の受け入れ態勢は協定の前から整えられていた形です。ただ、この防衛上の必要と、今回報じられている個別の条件は、そのまま一本の線ではつながりません。
まだ掘られていないレアアース
トランプ氏がグリーンランドに関心を持つ理由として、レアアースがよく挙がります。島の南部には世界最大級とされる鉱床があり、防衛産業で使う重希土類を多く含みます。ただし米シンクタンクCSISの今年1月の報告によれば、島で稼働している鉱山は2件だけで、レアアースの採掘はこれまで一度も行われていません。
理由は地理と規制です。島の道路は全体で150キロほどしかなく、港の能力も限られ、氷に覆われていない土地は2割にすぎません。2021年にはウランを含む鉱石の採掘を禁じる法律が成立し、有力鉱床の一つは開発が事実上止まっています。中国企業は空港建設や鉱山への出資を試みてきましたが、大型の案件は一つも実現していないと同じ報告は指摘しています。
海外の反応
合意の一報を受けて、英語圏最大のニュース掲示板であるRedditのr/worldnewsに立ったスレッドには、1日で1,400件を超えるコメントが集まりました。
論調の中心は「本当に新しい合意なのか」という疑いで、1951年の米デンマーク防衛協定を持ち出して「米軍はもともとグリーンランドに基地を置けた」と指摘する声が上位を占めています。
以下はスレッド内のユーザーコメントの抜粋・翻訳です。
グリーンランドには1951年からの協定があって、米国は島内のいくつもの基地から軍を動かせることになってた。その協定は今も生きてる。基地と作戦の予算を削ったのは米国自身だよ。だからトランプはたぶん、予算を戻したうえで「ほら、新しい合意だ!」って言うだけだろうね。
https://en.wikipedia.org/wiki/Military_in_Greenland
つまり、たぶん中身は何もないってこと。
いつものトランプのやり方だよ。古い協定をけなして抜ける。混乱を起こす。前より悪い協定に署名する。勝利宣言する。この繰り返しで、割を食うのは世界のほう。
デンマーク首相がたった今発表した。「王国の主権と領土の一体性、そしてグリーンランドの人々の自己決定権を同時に認める合意である」と。
つまりトランプや他の米国人が突きつけてきた脅しの中身じゃなくて、実際には古い協定の焼き直し。とはいえ、あれだけ脅されたことは忘れられないけどね。
コペンハーゲンより
グリーンランド自治政府首相のイェンス・フレゼリク・ニールセンも、「この合意はグリーンランドの利益と、国際協力の場における我々の立ち位置を認めるものだ。我々全員のためになる」と述べている。
悪いけど、合意文書に書いてあるから米国はグリーンランドの主権を尊重するはず、なんて信じるのは、今となっては恥ずかしいくらい甘いよ。
自分の見方だと、米国がもう持ってたものと同じ合意。違うのは、基地を広げたり建てたりする前にグリーンランドやデンマークの許可がいらなくなった点かな。
あと恒久的な飛行の権利も得た(これもたぶん前から持ってた)。
その権利も前から持ってたはず。基地の大半を閉じたのは米国自身の判断だったし。
基地を置く権利はあった。ただ、使い方や拡張は、場合によってグリーンランドやデンマークの承認がいる形だったと思う。新しい合意ではそれがなくなってるんじゃないかな。
じゃあ、戦略資源の真上に軍事基地を置いて、そこでの採掘は米軍基地内の軍事作戦だって言い張ることもできるわけ? デンマークの承認をなくすのは相当大きな話に見えるし、もう協定があるのに、この変更と引き換えに何をもらうんだろう。
古い協定だと、米軍の計画にデンマークの同意がいった。
新しい協定だと、米軍は好きなようにできる。
おまけに米国は外国からの投資の承認権まで手に入れる。
古い協定でも米軍は好きなようにできたよ。新しい基地の承認手続きなんて形だけだった。
実際には何も変わらない。そもそも米国にグリーンランドで基地を増やす動機が今もないんだから。昔は20か所あった基地が今はかろうじて動いてる1か所だけ、ってのには理由があって、こっちが出てけと言ったからじゃない。
トランプは「米国の敵対国は、我々の書面による明示的な承認なしに、グリーンランドで軍事的な存在を維持することも、機微な投資を行うこともできない、という条項が含まれる」と言ってる。
その合意文書で「敵対国」がどう定義されてるのか、ぜひ見てみたい。敵対国って、厳密に「戦争中の国」って意味じゃないからね。トランプが「敵対的だ」と名指しさえすれば、EUどころかデンマークのグリーンランドへの投資まで止められかねない。
合意文書が「敵対国」をはっきり定義してないなら、デンマークは警戒したほうがいいよ。
トランプの投稿のこの部分が引っかかる。
「さらに今後は、米国の敵対国は、我々の書面による明示的な承認なしに、グリーンランドに基地を持つことも、軍事的な存在を持つことも、機微な投資を行うことも、断じてできない」
これって主権の侵害じゃないの? 許可なしに取引できないなら、降伏に近く見えるんだけど。
それは、トランプが合意の中身を正確に説明してるって前提の話だよね。その見込みはかなり低い。
ロイターによれば、今回の米国・デンマーク・グリーンランドの合意は、米国に恒久的なアクセス権、基地使用権、上空通過権を与え、米軍の存在の大幅な拡大を認め、さらに非NATOの敵対国が基地を置いたり一定の機微な投資を行ったりするのを防ぐ条項を含む。
デンマーク人が集まるr/Denmarkのスレッドは、英語とデンマーク語が混ざった場になっています。
「75年前から同じ内容だ」という冷めた受け止めと、「紙の上の主権保証をどこまで信じられるのか」という不安が並んでいます。
以下はスレッド内のユーザーコメントの抜粋・翻訳です。
75年前から結んでるのと同じ協定でしょ。
恒久的だって点、非NATO国を締め出す点、それに軍の拡張をデンマークやグリーンランドに通知しなくてよくなった点を除けば、ね。
「米国は王国の主権とグリーンランドの自己決定権を認める」。紙の上ではいい感じに聞こえるけど、これについては本当に、本当に嫌な予感がする。
同感。あちこちに軍事基地を置かれてしまえば、主権は少しずつ削られていく。「安全保障はこっちが提供してるんだから、言うとおりにしたほうがいいよね」って具合に。
でも、恒久的な基地をあちこちに造られたあとで、誰が彼らを追い出せるの?
それに「軍事目的」なら何でもできるなら、データセンターの建設だって簡単に軍事の話にできちゃう。
グリーンランドに関心を持つ人が集まるr/greenlandのスレッドでは、他の2つより踏み込んだ読みが出ています。
条文がないまま報道をもとに推し量る議論で、論点は今回の合意がグリーンランドを署名当事者にしたこと、そして独立後にも効力が続くとされることの意味です。
以下はスレッド内のユーザーコメントの抜粋・翻訳です。
現状の追認ではあるけど、域外からの投資の禁止はこれまで明文化されてなくて、政治的な暗黙の了解にすぎなかった。それにグリーンランド自身が署名当事者になったってことは、将来独立したグリーンランドもこの合意に縛られるってこと。1951年の協定ではそうじゃなかった。
あの人を笑うのが流行ってるのは分かるけど、せめて正確な情報を出してほしい。
これは同じ協定じゃない。古い協定はNATOを通した、NATO頼みの枠組みで、ときどき見直しの対象になってた。新しい協定は米国専用で、しかも恒久的。
古い協定は実質的には土地の使用権の取り決めでしかなかった。新しい協定はそれを含んだうえで広げて、さらに他のどの国がそこで建設し、資源を掘り、投資できるかを米国がはっきり握る。
実質的に米国がグリーンランドを支配する形で、デンマークは公式の書類に名前が載ってるだけ。
どのみちグリーンランドが近い将来に、いや遠い将来にだって独立する見込みはなかったよ。仮にあったとしても、これで押しやられる先は米国側じゃなくて、むしろデンマーク側の影響下だろう。
領土を取らずに何を得るのか
条文・報道・公式発表の三層
「トランプ氏は大きな成果を得たのか」「焼き直しにすぎないのか」という議論は、三つの情報の層を混ぜたまま進んでいます。条文に書いてあったこと、匿名の当局者やトランプ氏が説明したこと、公式発表が認めたことは、それぞれ別の重さを持ちます。
| 論点 | 1951年・2004年協定の条文 | 匿名当局者・トランプ氏の説明 | 公式発表で確認できる範囲 |
|---|---|---|---|
| 基地の使用・上空通過 | すでにほぼ自由 | 恒久化 | 記載なし |
| 新しい基地の設置 | 両政府の合意が必要 | 同意から協議へ変わると米側が説明 | 記載なし |
| 協定の存続期間 | NATOが存続する限り | 期限なし、NATOと連動しない | 記載なし |
| グリーンランド独立後 | 規定なし | 効力が続く | 記載なし |
| 非NATO国の基地 | 規定なし | 禁止 | 記載なし |
| 敵対国の機微な投資 | 規定なし | 米国の承認が必要 | 記載なし |
| 資源開発への米国の関与 | 規定なし | 報道でも不明 | 記載なし |
| 主権・自己決定権 | ― | ― | 承認すると明記 |
2026年9月20日時点。条文は1951年協定と2004年イガリク協定の原文、説明はロイター通信とトランプ氏の投稿、公式発表はデンマーク首相府とニールセン首相の発信による。
公式に確認できるのは右の列だけで、6項目の中身は一つも公式文書に出ていません。同時に、条文の列を見れば、米軍の利用そのものは75年前から認められていたことも分かります。「新しい」と言えるのは中央の列のうち、条文に規定のなかった4行です。
米国が欲しかった恒久の足場
米国の利益は領土の取得ではなく、既存の権利の法的な足場を組み替えることにあります。1951年協定は米国とデンマークの二国間協定ですが、存続期間は「北大西洋条約が存続する限り」と定められています。ブルームバーグによれば、今回の協定はNATOの寿命に連動しないと報じられています。
法的な存続期間と、NATOの一員として受けてきた政治的な抑制、基地運用の実務上の制約は別のものです。存続期間の切り離しが実際に何を変えるかは、条文と改廃の規定が出るまで分かりません。
それでも、米国がNATOとの関係をどう変えてもグリーンランドの足場が残る設計を米側が求めた、という方向は見えます。グリーンランドが独立しても協定は引き継がれると当局者は説明しています。土地を買えば統治の費用と住民の反発を引き受けることになり、併合すれば同盟の信頼を失います。土地を取らずに足場だけを恒久化する方が、米国にとって安上がりで確実です。
さらに「中露を入れない」条項は、自分が使えるだけでなく他国に使わせない二重の価値を持ちます。ただしデンマークの研究者は、デンマーク人もグリーンランド人もロシアや中国の基地など望んだことがなく、この排除は大きな譲歩ではないと指摘しています。米国が得たのは、これまで政治的な了解にとどまっていたものを文書にした、という変化です。
デンマークが1月に引いた線
デンマークにとっての成果は、米国大統領が署名する文書に王国の主権と領土の一体性を書き込ませることです。報じられている米軍の駐留拡大と投資への関与は、1月の声明で「交渉できる」とした安全保障・投資・経済の範囲と重なります。ただし、デンマークが実際に何を認めたのかは、条文が公開されるまで確定しません。
デンマークの計算にはもう一つの側面があります。北極防衛の穴を自力で全部埋めるより、米軍の装備と予算を引き込む方が現実的です。同時に、9月7日の会見でフレデリクセン氏が欧州の同盟国との協力を並べて強調したように、米国だけに頼る形は避けたいという姿勢も見えます。NATO全体の北極防衛にグリーンランドを組み込み、一国への依存を薄める計算です。
米側の当局者は、新しい基地について従来の「同意」が「協議」に変わると説明しています。デンマークとグリーンランドはこの点に触れていません。もし米側の説明どおりなら、条文上は両政府の合意が要った新設が、通知と協議で済むことになります。ここが公式発表の「主権は保たれた」という言葉と、トランプ氏の「恒久的な支配」という言葉の間にある空白です。
署名当事者になったグリーンランド
グリーンランドにとってこの協定は、署名するなら独立の後ろ盾にも、独立の制約にもなり得ます。2009年の自治法では、外交と安全保障はデンマーク王国の事項で、グリーンランド自治政府が単独で防衛協定を結ぶ権限はありません。今回グリーンランドが署名に並ぶのは、共同で交渉した協定には可能な限り自治政府も署名するという自治法の規定に沿った運用です。
人口5万7千人の社会が独立した場合、世界最大の島を自力で守ることはできません。安全保障は米国とNATOに、経済は欧州とデンマークに、政治は自分たちで、という三層の構造を作れれば、デンマークへの全面依存を減らせます。米側当局者の説明どおり独立後も効力が続くなら、この構造の安全保障部分を先に確保することになります。
一方で、独立前に結んだ協定に独立後の国家が縛られるという意味でもあります。自治政府の署名が将来の独立国家をどこまで拘束するのかは、この協定で最も重い未解決点です。コペンハーゲン大学の政治学者は、正式な権限が米国に移るなら「デンマークとの植民地的な関係を米国との関係に置き換える始まりなのか」という問いが生じると指摘しています。
2025年1月の世論調査では、米国の一部になりたいと答えた住民は6%、独立に賛成が56%でした。併合を退けた点は世論と重なりますが、協定そのものへの賛否を測った調査はまだありません。
議会の約4割を占める野党は、発表から2日の時点で評価を出していません。首脳が歓迎した協定を住民と議会がどう受け止めるかは、条文の公開後に決まります。
「世界の警察をやめる」との整合
トランプ政権の方針と今回の協定は、一見すると噛み合いません。ホワイトハウスは7月の資料で、欧州の米軍を2022年以前の水準に戻し、欧州の通常防衛の一次的な責任は同盟国が負うと説明しています。その同じ政権が北極で米軍を増やすと言うのです。
米側の理屈は、グリーンランドは外国を守る基地ではなく米本土を守る基地だ、というものです。ピツフィックのレーダーはロシアのミサイルを北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)に伝える装置で、ルビオ氏の「北米の戦略防衛地域」という言葉はここを指します。
今年の国防戦略も本土防衛と西半球を最優先に引き上げており、欧州で減らして本土の前線に足す再配置として読めば一貫しています。
ただし、それは軍事費の削減ではなく優先順位の付け替えです。トランプ氏は「費用なし」と投稿していますが、新基地の数、場所、人員、誰が払うのかはどれも公表されていません。北極圏の施設は建設も維持も高くつきます。
しかも国防戦略の文書には北極圏の記述がほとんどなく、ホワイトハウスの7月資料も北極に触れていません。公開文書だけでは、北極での増強が体系的な戦略の一部なのか、個別交渉の結果なのかを判定できません。予算、配置計画、基地建設の公表が、その判定材料になります。
条文で決まる3点
協定の実質を左右するのは3点です。第一に、新しい基地を造る際にデンマークとグリーンランドの合意が要るのか、協議と通知で足りるのか。ここが「同意から協議へ」なら、トランプ氏の「支配」という言葉に実体が伴います。両政府の合意が残るなら、変化は存続期間と署名当事者の範囲にとどまります。
第二に、「敵対国」と「機微な投資」を誰がどう定義するのか。定義が米国の判断に委ねられていれば、鉱業や港湾、通信への外国投資の可否を米国が握ることになります。第三に、資源開発への関与です。報じられているのは中国を入れないという遮断の権限で、米国が掘るという取得の権限は報道でも不明のままです。この二つを混ぜると、稼働鉱山が2件しかない島の現実と噛み合わなくなります。
主権を渡さずに何を委ねたのか
主権と支配のあいだ
当ブログは1月の記事で、争点は領土の取得ではなく北極圏の統治構造を誰が握るかにあると書きました。1月は発言と圧力の段階で、9月は協定の署名予定という段階へ移っています。併合ではなく協定という着地は同盟の枠の中に収まりましたが、統治構造がどう変わるかは条文が出て初めて比べられます。その協定の存続期間がNATOと切り離されると報じられている点は、1月には見えていなかった論点です。
各政府の発言から読める限り、三者はそれぞれ違うものを持ち帰ろうとしています。米国は領土なしで恒久の足場と他国の排除を、デンマークは領有要求の終わりと主権の明文化を、グリーンランドは独立後も続く安全保障の後ろ盾と、その裏返しの制約を。同じ文書に三つの計算が乗っているからこそ、トランプ氏の「恒久的な支配」とニールセン氏の「主権と自己決定権の承認」が同じ協定の説明として並びます。
主権を渡さずに安全保障を委ねる形は、日本を含む多くの同盟国が米国と結んできた関係の型でもあります。基地を置く側と置かれる側の間で、どこまでが協議でどこからが同意なのか。その線を条文で読める日が来たとき、この協定が前例として何を残すかが決まります。
それではまた、次回の記事でお会いしましょう。
YouTubeでも配信中
せかはんでは、記事の内容をまとめた解説動画とショート動画を配信しています。動画で振り返りたい方はこちらからどうぞ。
▼記事が面白かったら応援クリックお願いします!▼
▲更新の励みになります!▲
関連書籍紹介
『グリーンランド〈増補新版〉 人文社会科学から照らす極北の島』
高橋美野梨 編(藤原書店/2026年02月刊)
人類学、政治学、歴史学、宗教学、文学など複数分野の研究者が、世界最大の島の社会と統治を多面的に論じた論集です。増補新版では、トランプ政権の領土化構想を踏まえて、デンマークと自治領グリーンランドの関係とその行方を問う論考が追加収録されています。
今回の記事で扱った「グリーンランドは署名当事者として何を引き受けたのか」「独立の後ろ盾と制約は表裏なのか」という論点を、島の側の歴史と社会から読み直せる一冊です。報道で急に名前を聞くようになった島について、統治のかたちから理解したい方に向きます。
『日米地位協定 在日米軍と「同盟」の70年』
山本章子(中央公論新社/2019年05月刊)
在日米軍の基地使用や行動範囲、米軍関係者の権利を定めた協定が、70年の運用のなかで実際にはどう動いてきたのかを追った新書です。冷戦後に独伊などが協定を改正した一方で日本では改正されていないこと、実際の運用が非公開の合意議事録に基づいてきたことなど、条文と運用のずれを具体的に扱っています。第41回石橋湛山賞受賞作。
今回の記事で扱った「主権を渡さずに安全保障を委ねる形は、その後どこまで自国の裁量を残すのか」という問いは、日本がすでに70年かけて通ってきた道でもあります。グリーンランドの協定で問題になっている「同意なのか協議なのか」という線引きが、実際の運用でどう動くのかを日本の事例から確かめたい方に向きます。
参考リンク
- Expected agreement on strengthened security in the Arctic and the North Atlantic Area|デンマーク首相府
- EXCLUSIVE: US and Denmark reach deal on Greenland, Trump says|Reuters
- Greenland, Denmark say Trump deal won’t compromise sovereignty|Reuters
- Agreement relating to the Defense of Greenland (1951)|Wikisource
- Agreement Signed at Igaliku August 6, 2004 (TIAS 04-806)|米国務省・GovInfo
- Act on Greenland Self-Government (2009)|デンマーク首相府
- NATO allies promised Trump they’d secure the Arctic; they’ve got work to do|Reuters
- Greenland, Rare Earths, and Arctic Security|CSIS
- The 2026 National Defense Strategy by the Numbers|CSIS
- Opinion poll in Greenland, January 2025|Verian


